翌日の様子

避難先の友人宅で不安な一夜を過ごした後、朝食もそこそこに家に戻った我々は、前日の悪夢が悪夢ではなかったことを思い知らされることになる。我が家は、焼け残っていたし、幸い、同じ通りの住民で家が全焼したケースはなかった。しかし、明るい日差しの中で、焼けた裏山や周りの通りで全焼した家々が異様な黒い姿を見せている。

隣まで来た山火事

朝起きてラジオをつけてみるが、依然としてDuffyのことばかりで、我が家のあたりがどうなっているのか情報が入ってこない。隣近所にあちこち電話をかけるがつながらない。ようやく右隣の住人の携帯につながる。その人が我が家は燃えなかったと教えてくれた。兎に角この目で見るまではとても信じられない、と帰途に着く。道路封鎖はすでに解除されていたが、朝日に浮かび上がった焼け野原は、焼けているときにも増して壮絶だった。

隣家のカーポートと塀。

家まで戻ってみると、隣の家のカーポートは、見事に焼け落ち、木製の塀も半分焼け落ちていた。私たちが逃げた後、残った近所の人たちは、夜中まであちこちに燃え上がる木や塀の火の消火作業を続けたそうだ。恐かったのは、この写真に写っている塀がこの夜また燃え上がり、残っていた部分が全部焼け落ちてしまったことだ。山火事が通りすぎた24時間後にも、まだ燃え上がる力を持っているというのがすごい。他にもあちこちからものがくすぶる煙があがっていた。

隣の家の木製のポーチに火がついていたら、我が家も燃えていただろうと思う。隣家の庭は燃えやすいオーストラリア産の木々がかなり植わっているし、そのうちの一本は我が家の軒先にまで伸びているのだ。

我が家のある通りでは、一番奥の家の被害が最も大きかった。この家の塀は、ようやく火を消したと思って一休みすると、燃え上がり、また消したと思ったら燃え上がるということを繰り返して、3時間後にようやく塀がはじっこまで燃え尽きて終わったという。奥の家の住人は、車椅子を使う障害者だが、近所の人たちが総出でこの家の消火にあたったらしい。我が家の斜め裏に住むおじさんは、市の中心街に店を持っているが、山火事が近くまで来ていることを知ると、店の若い男の子数人を連れてきて、あちこちの火事を消し止めてくれた。この男の子達や、いつもはパーティで大騒ぎする貸し家の男の子達の活躍がなければ、もっとたくさんの家が燃えていたことになる。

焼け残った奥の家と庭

焼けた山々

昨夜の興奮さめやらず、近所中が集まっては、火事の様子やら、燃えた家のことなどを話している最中に、めきめきめきっと音がして、続いてどどーんとオオモノが倒れる音がする。裏山の道路から20メートルほど登ったところにあるユーカリの大木は、昨日から燃え続けていたのだが、とうとう幹の下のほうが自分の重みに耐え兼ねて倒れたその音だった。倒れた木の周りには、真っ白な灰が雪のように積もっていた。

裏山の一部。下草は全部燃えてなくなってしまい、木々も葉が黒や茶色になっていた。

連れ合いが周りの様子を見に行って、帰ってきたときには、火事の熱で溶けてしまったガラス瓶を持っていた。裏山のふもとにころがっていたのだそうだ。毎晩のように芝生を食べに来ていたカンガルーもだいぶやられてしまったことだろう。この地域から大通りに出る歩道が一つだけあるが、その真ん中にかかっていた木製の小さな橋はもちろん焼け落ち、跡形もなかった。歩道の両側の木々も焼けて倒れたものがいくつもあり、まだ立っているものでも、枝が落ちかかっているものなどが多くある。

夜、真っ暗になってから裏山のあちこちで炭火のように燃え続ける木の幹が浮かびあがって見える。これは、トールキンの「指輪物語」に出てくるイセンガルドやモルドルそのものというくらい不気味な光景だった。

電気が使えない

夕方になっても、まだ電気は使えない。この地域にある電柱がいくつも損傷してしまったそうだ。ラジオでは、今日中にキャンべラの95%の家で電気が使えるようになる、と言っているが、残り5%がどこなのか、自分達がこの95%に入っているのか全く情報が入らない。これまで、停電なんてものは、せいぜい2、3時間しか経験したことがなかったので、夜ずっと灯りがないということは初めてだった。子供たちはいつも廊下の豆電球がないと寝られないので、夜になる前に友人宅でキャンプ用のランプの充電をさせてもらう。この時点で、停電が1週間以上続くとは、予想もしていなかった。