概要と避難までの様子

2003年1月18日午後、この日は、連れ合いの誕生日で、午後には友達と飲みに行きたいと言っていた。友達の都合で飲みに行けなかったが、今思うと本当に、本当に、連れ合いが飲みに行っていなくてヨカッタ。我が家には、車は一台しかないのだもの。まさか自分の家にまで山火事がやってくるとは、思ってもみなかったが、我々に限らず、今回の山火事の規模と被害地域は、オーストラリア首都特別地域の政府を含め、皆の予想をはるかに越えたものとなった。

我が家の地域の被害概要

火事の焼け跡(一部)を写した衛星写真。赤い×印が我が家のある位置。左の真っ白な部分と黒い部分は焼けてしまった林や野原。

左は、被害のあった地域の一部衛星写真。一番被害の大きかったDuffyは、この写真には入っていないが、写真左上のChapmanよりさらに北西にあたる。この写真は我が家の地域を中心にすえている。今回の山火事では、幸いにも、死者は4人にとどまったが、避難命令が出なかった地域にも大きな被害が出た。我が家も、警察も消防も来ない中、まわりの家や車が燃えている間を縫って3人の子供ととも脱出した時は、2軒先の家まで火がせまっていて、もう家は燃えてしまうものとあきらめていたのだった。翌日一晩過ごした友人宅から戻ってみると、家は無事だった。以後8日間は電気の使えない不自由な生活が続いたものの、家が全焼もしくは半焼・半壊してしまった人々に比べて、我々はなんと幸運だったことかと思う。

我々の住むところは、東100mにテイラー山、西3kmにアラワン山があり、80軒ほどの家が半円状の通り抜け道路とそこから伸びる6本の行き止まり道路に散らばって建っている。山火事は、西のアラワン山から、東のテイラー山の山頂に飛び火し、間に挟まれた我々は両側から襲ってくる火と戦う羽目になった。80軒のうち11軒が全焼、4軒が住めないほどに焼け、半数以上の家が何らかの被害を被った。右は、我が家のある地域の被害状況のスケッチ。青い丸が我が家で、赤い部分は全焼した家、黒い部分は、家の一部や、庭、公園、野原などが焼けた部分。我々は、幸いにも殆ど無傷で残ったくちだったが、火の粉と煙の中を泣き叫ぶ子供たちをなだめながら避難したことは、一生忘れることがないだろう。

我が家が属する80軒あまりの集落の被害状況

避難するまでの経緯

異様な色の空:午後3時頃。連れ合いの誕生日だからと、ちょっと遊びに寄ってくれた友達を見送りに外に出てみると、空は煙でオレンジ色になっていた。太陽が直視できるくらいに煙に覆われていた。この日は、昼ごろから南のほうの地域と西のほうの地域に山火事注意報が出され、消防や警察が待機していたのは知っていたので、この空を見ても、それほど驚かなかった。実際、キャンべラの南や西では、すでに何日も山火事が続いており、町中が煙に覆われている状態だったので、風向きによって今日は煙がこっちに来ているのだな、ぐらいにしか思わなかったのだ。

煙のために異様に赤みがかったた空。太陽が直視できる。
さらに赤みを増し、暗くなった空。降ってくる灰が見える。

急速に暗くなっていった:5分後の空。この写真にはフラッシュの光に反射する灰が写っているが、肉眼では、灰はまだそれほど降っているようには見えなかった。この後、みるみる空は暗くなり、ものの10分もしないうちに街灯がつく。風が強くなり、異様な雰囲気に包まれた。さすがに、これは、ちょっとすごいことになったぞ、と思っていると、近所の人々も、皆通りに出てきて煙の来る方向をながめている。きっと西のほうの地域では燃えている家があるに違いないなどと思う。中には、屋根に登って遠くを見やる人も出てきた。しかし、視界はすこぶる悪い。

真夜中のように暗くなった空の西に赤い煙が見える。

もしものために山火事に備える:3時15分頃から4時まで。西のほうに赤く照らされた「何か」が見えたときも、まさか火の手がうちの地域までやってくるとは思ってもみなかった。ラジオを聞きながら、「もしも」山火事が近くまでやってきたときの為に準備を進める。雨樋に溜まった落ち葉を掻き出してそこに水をはったり、燃えそうな物に水をかけたり、家の窓のそばにある家具などを窓から離すなどの作業をする。灰の他にも黒く焦げた葉などが降り始めると、さすがに緊張する。東100メートルにある山を何度も見ながら、とりあえず避難の準備もしておこう、と最小限の書類だけはかばんに詰める。子供たちにも自分達の洋服をそれぞれかばんに詰めるように言い聞かせる。下の二人はまだよく状況が飲み込めていない。長女はかなり緊張してどのおもちゃを持っていくか早口でまくしたて始める。

ファイアー・ボールに襲われる:4時過ぎ。連れ合いがガレージの屋根に水をかけている頃、私は裏の塀(木製)に水をかけていた。以前にも増して強い熱風が吹いたかと思うと、東にあるテイラー山の山頂近くにふわっと火が付いた。心臓が止まるかと思った。しかし、風は東に向かって吹いていたので、こちらに来ることはない、と自分達に言い聞かせながら作業を続ける。しばらくすると、突然、轟音が響きわたった。まるでジャンボ機が裏庭に着陸するんじゃないかというような音で、音がする西のほうを見ると、西のアラワン山の山頂から津波のように「火の海」が押し寄せてくるその音だったのだ。連れ合いは、あわててガレージの屋根から降り、二人とも家の中に退避する。ほぼ同時にバチバチという音がして停電し、煙に反応する火災報知器があちこちで鳴り出し、家の周りには、火の粉が雪のように降ってきた。子供たちは泣き叫び、外では、あちこち物が燃え出したのが見える。連れ合いは、隣のおじさんと通りで燃えている物(車や草地など)の消火作業にあたり、私は避難のための荷物をまとめながら、家のまわりに飛び火したものがないかを頻繁にチェックする。私が動くたびに3人の子供達がしがみついて離れない。

裏庭から東のテイラー山に火が付いたところを写す。

近所中火事だらけ:4時半。そうこうするうちに3軒先の家が燃え出し、向かいの家の裏の家にも火が付いて、轟音を立て始める。この時、私ははっきりと「もう家はあきらめるしかない」と思った。消防に電話で近くの家が燃えていることを知らせ、避難所がどこかを聞く。生まれて初めて消防に電話なんかした。受話器を持つ手が震えてしまう。この間にも近所の人々があちこちで消火作業を続けている。こんなになるまで緊急時の避難所がどこにあるのかも知らなかった自分の呑気さにあきれる。

脱出:5時前。2軒先の家まで火が迫り、3軒先の庭が火の海になったところで、その近くのユーカリの大木が花火があがるときのような大きな音をたてて「爆発」した。これには、さすがの連れ合いも真っ青で、車を出す。燃えている車、燃えている家々、燃えている木々を横目にしながら、「これは、夢なのかもしれない。」と思いながら、避難する。子供たちは、車が動き出すとかなり落ち着いてくれた。はっきり言って、この時点で緊急対策本部は火事の規模の大きさが全く把握できていなかった。既に我々の地域にまで火が来ているのに、避難勧告もなければ、消防も警察も来なかった。後から聞いたところでは、もっと南の地域で、被害の少なかったところには避難勧告が出され、警察の誘導もあったそうだ。さらに、電話で指示された避難所は、テイラー山の北にあり、そこに行く道は既に全部閉鎖、もしくは、通行するにはかなり危険な状態にあったのだった。そうとは知らなかった我々は、言われた通りに避難所に向かうことになるが、後から考えると、もう少し早く避難していたら、かなり危険な目にあっていたことになる。幸いにも、既に火が通り過ぎた後だったので、道の両側は燃えていたものの、車に火がつくというような恐い思いはしなくて済んだ。

友達の家に避難

いつもは、15分しかかからない友達の家に、40分かけてたどり着いたとき、友達家族もまた避難所への避難の準備を進めているところだった。我々の心配をして電話をかけてくれたのだそうだが、かけてくれたときには、もう脱出した後だった。結局、様子を見て、避難するなら一緒に避難所へ行こうということで、とりあえず落ち着く。既に電気は止まっていたが、ラジオの山火事情報をかけっぱなしにして過ごす。

ラジオでは、放送を中継している緊急対策本部の屋根に火がついたと大騒ぎしているが、「消防車が2台で消火作業を行っております。」とアナウンサーが言ったときは、「なんでそっちに2台も行ってるんだ!」と思わず怒る。あんなにたくさんの家が燃えていたのに、うちのほうには一台も来なかったじゃないか。(後から近所の人に聞いたところでは、うちのほうに消防車が来たのは、夜10時を過ぎてからで、私が電話してから5時間以上たっていた。)

家の様子を見に行く:7時半煙も前よりいくらか小康状態になったため、連れ合いと友人が我が家のあたりがどうなったか様子を見に行く。しかし、我が家のほうに続く道は3本とも閉鎖されたままで、警察に追い返されたと帰ってきた。しかたがないので、このまま友人宅で夜を明かすことにする。

子供たちを寝かしつけた後は、ベランダに座って、友人夫妻と4人でラジオの中継を聞き続ける。夜中まで聞いていたが、その間ニュースで流されたのは、DuffyとHolderという地域のことばかりで、我々の地域のことは、ただの一度も聞けなかった。おまけに、「Duffyでは、少なくとも60軒の家が全焼した模様。」なんて呑気なことを言うではないか。家のあたりだけでもあれだけ燃えていたというのに300軒じゃきかないよ、とまたラジオに向かって怒る。

一夜明けて

一夜あけてからの様子は翌日の様子に記載。